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2014. 07. 28  
  最近ある友人から新聞記事の切り抜きを頂いて、詠んでい
くうちに妙なことに気がついた。

  記事は産経新聞のH.26.4.16.
のもので“ 後鳥羽上皇の「承久の乱」ゆかりの椋橋総社(くら
はしそうじゃ) ”、というものだった。




1 椋橋(くらはし)総社の本殿および拝殿






      <1 椋橋総社の本殿および拝殿 >


  そこに描かれている神社の地図を見て驚いた。以前阪急沿
線園田駅前に住んでいて、まったく知らなかったが、この椋橋総
社の位置は住居に対して東南の方角にあたっている。



2 椋橋総社と園田駅前にいた時の家







      <2 椋橋総社の位置と園田の家 >

  結婚してから7年間ぐらいだったが、そののち羽曳野に移
り住んで15年ほどいたところは広瀬(富田林から少し北)とい
うところで、聖徳太子の御廟がある叡福寺(えいふくじ)に対し
て西北にあたる。これも特に意識していなかった。




3 羽曳野に居たときと叡福寺






      <3 羽曳野に居た時の家とと叡福寺との位置 >


  叡福寺には聖霊殿というのがあって、その本尊として、聖
徳太子の16歳当時の立像が安置されていて、後鳥羽天皇が
下賜したものだそうだ。


  さらに現在は大阪市は西成区花園に住んでいるが、この
位置の東南の方角に以前にも紹介したとおり、後鳥羽院が寵
愛した官女松虫の塚があり、熊野詣でで何度も訪れたであろ
う阿倍野王子神社もある。さらにすこし東南に足を伸ばせば平
野大念仏寺がある。




4 現在の住まいと松虫塚・阿倍野王子神社






<4 現在の住まいと松虫塚・阿倍野王子神社 >


  このごろ熊野古道や後鳥羽上皇について勉強していない
ので、催促状が来たように思えてくる。

  ただし四天王寺、止止呂支比売命(とどろきひめ)神社、住
吉大社、水無瀬(みなせ)神宮はこの例にはあたらない。

  とりあえず、椋橋(くらはし)総社に行ってみることにした。


  
  この神社は11世紀以降、豊中市南部から兵庫県尼崎市
東部一帯にあった「椋橋荘(くらはしのしょう)」の総鎮守の社
だったようである。




5 椋橋(くらはし)総社






      <5 椋橋総社の由緒書 > 




6 椋橋(くらはし)総社拝殿






      <6 椋橋総社の拝殿 >


  13世紀はじめこの地と隣の荘園、長江荘は、後鳥羽上皇
が寵愛した亀菊という官女に与えられたものだったが、鎌倉か
ら派遣された地頭が支配し、管理しようとしたため鎌倉との対
立がひどくなったそうである。

  さらに鎌倉の将軍の跡継ぎ問題などでも対立し、ついに上
皇が北条義時を追討し倒幕を図る決心をしたそうである。承久
の変の結果、上皇は敗れて隠岐(島根のおき)に流されてしまう。

  寵姫(ちょうき)については、松虫との関わりでは浄土宗との
因縁がからみ、この亀菊では荘園問題と政治について圧倒的に
武士の勢力が強くなってしまうきっかけをつくってしまうのである。

  またこの椋橋総社のご祭神にはスサノオノミコトと神宮皇后
があげられており、スサノオは「神代の昔、高天原から鯉にのっ
て神崎の水門を経て当地にこられた」としていて、行基菩薩の伝
説もあって、鯉塚を立て鯉を大切にしている。




7 鯉 塚






      <7 鯉 塚 >



  現代の椋橋総社(くらはし そうじゃ)の横には幼稚園が併
設してあった。
    



8 付属幼稚園





      <8 幼稚園 >




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2013. 10. 18  
  10月の半ば、後鳥羽天皇が下賜(かし)されたと
いう16歳当時の聖徳太子の等身像があり、開基は聖武
天皇ともいい、聖徳太子または推古天皇ともいう叡福寺
に行って来ました。

アクセスは近鉄河内長野線「喜志」駅下車、バスで10
分です。
              










< 叡福寺の入口 >  




このお寺は一般には、日本に仏教をもたらした聖徳
太子の墓を守るために推古天皇が建立されたといわれて
います。

推古天皇28年(620年)、太子が生前この地(大阪
府南河内郡太子町)の磯長(しなが)に自分の墓所を決
めたそうです。
御詠歌に「磯長(しなが)なるみ寺にいまも うまやど
の みこのみたまは しずまりてます」と歌われています。
        











   < 叡福寺の境内図 >



  ところが翌年御自分の生母の穴穂部間人(あなほべ
はしひと)皇后が亡くなられ、更にその翌年622年に
太子と妃の膳手(かしわで)姫が同時期に亡くなって、
この同じ墓に葬られたそうです。その結果ご廟は三骨一
廟の陵墓になりました。












   < 叡福寺の入口、南大門 >


  太子の没後、100年くらいたって聖武天皇の勅願
によって東西二寺院からなる法隆寺ぐらいの規模の寺院
が整備されました。しかし戦国時代末期には織田信長の
焼き討ちにあって全焼し、その後再建されてほぼ現在の
規模になったようです。













    < 叡福寺の中庭 >




  南大門をくぐって中庭に入ると正面の奥には磯長(
しなが)山という陵墓があって、中庭の左手に手前から
多宝塔、金堂、聖霊殿とならびます。真正面の「聖徳太
子廟」の手前には二天門と呼ばれる阿形(あぎょう)天
と吽形(うんぎょう)天が守る山門があります。












   < 太子ご廟前面にある二天門 >



南大門の裸形に近い金剛力士像が守る雰囲気とは違って華
やかで上品な趣があります。「古事類苑(こじるいえん)」
という明治時代につくられたわが国最大の百科事典に元禄元
年(1688年)当国の丹南藩主、高木主水正が回廊・上の
御堂・鐘楼などと一緒に寄進したと記されています。












     < 阿形(あぎょう)天 >










    < 吽形(うんぎょう)天 > 



  中庭の左手の手前の場所に戻って多宝塔ですが、内部に
は釈迦尊像や大日如来像が安置され、柱には聖徳太子を助け
た四天王の画像が描かれているそうです。国の重要文化財に
指定されています。











      < 多宝塔(重要文化財) >




  その奥には金堂があり、このお寺のご本尊の聖如意輪観
世音菩薩が祀られています。
 










     < 金堂 >



  金堂の北側には聖徳太子の「聖霊殿(太子堂)」が
あります。熊野巡礼にあれほどの情熱を燃やした後鳥羽
天皇が宮中にあった16歳当時の聖徳太子等身像をこの
寺のために文治3年(1187年)に下賜され、本尊と
して祀られる様になったと言われています。










< 聖霊殿(太子堂)重要文化財 >





  いよいよ聖徳太子のご廟にお参りします。磯長(し
なが)陵の麓(ふもと)にあって、宮内庁の所管のため
垣の中に入ることはできません。ご廟の正面の扉の上に
は阿弥陀三尊の御来迎をあらわす木製のレリーフがかか
っていますが、太子の生母穴穂部間人(あなほべはしひ
と)皇后を中心に右に聖徳太子、左に膳手(かしわで)
姫をなぞった三骨一廟の意味を表しているといいます。











       < 聖徳太子ご廟 >



  ご廟を右のほうへ行くと、鐘楼や浄土堂といった建物が
あります。日本仏教の開祖とも言うべき聖徳太子を祀る叡福
寺には、空海や親鸞、日蓮など新仏教の開祖たちも多く訪れ
たそうで、弘法大師(空海)が参篭した「浄土堂」や親鸞坐
像を祀る「見真太子堂」などがあります。
              









< 浄土堂 >  



しかし聖徳太子は叔母の推古天皇の摂政で実際は偉大な
政治家であり、冠位12階を定め、十七条憲法を作ったり
小野妹子を大国である隋(ずい)の国(今の中国)に派遣し
て独立国として一歩も引かぬ外交を果たした偉人でもありま
す。

  今の政治家に爪の垢でも飲んでもらいたいところですが
十七条憲法において万人みな「凡夫(ぼんぷ)」にすぎない
として、また妃に「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ
これ真(まこと)なり」と告げたそうです。 






今回4回目の出演される、柳屋 おさけさん事、柳本 顕先
生 の春の演芸会に出て戴いた時の会場での漫談風景です。

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磯七&八景





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2013. 08. 14  
熊野街道・番外編 Ⅲ


  口縄坂を東へ上りきったところ(一部石段)南側に織田
作之助の文学碑があります。

「木の都」という小説の一節が書かれています。

 「 口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた。

私は石段を降りて行きながらもうこの坂を登り降りすること
も当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終わり、新し
い現実が私に向き直って来たように思われた。




 風は木の梢にはげしく突っ掛かっていた。・・・」

           








  < 織田作之助文学碑 >



  口縄坂の北側の源聖(げんしょう)寺坂のさらに北側に
生玉公園(真田山公園)の西の入口があります。

じつは筆者は小学1,2年の頃は日本橋二丁目あたりに住ん
でいて、この公園でよく遊んだものでした。











     < 生玉公園の西入口 >


  今は高島屋別館となっていますが、当時は松坂屋百貨店
があり、そこから東へ履物問屋街がつづいていました。
そのわき道にはなりますがゴム履物とケミカルシューズの問
屋を親がやっていて、チビたち同士で、東の下寺町の公園
(つまり生玉公園)まで足を伸ばして遊んでいた訳です。

  学校は難波の精華小学校(いまはもう無くなったそうで
す)に通っていました。

当時はもちろん今日のようには綺麗に整備されていませんでし
たが面影は残っていて懐かしいものです。
        











    < 公園を上がっていくところ >













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2013. 08. 14  
熊野巡礼 番外編
・ ・・お盆の法要に行ってきました・・・

熊野巡礼は熊野三山(熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本
宮大社)をめざして巡礼しながら行く参拝の形です。

その祭神は那智はイザナミノミコト、速玉はイザナギノミコ
ト、そして本宮がスサノオノミコトです。


そこに本地垂迹(ほんちすいじゃく)説によって千手観音、薬
師如来、そして阿弥陀如来が日本にやって来て神に化身し、熊
野権現となって貴族から庶民に至るまで、貴賎を問わず、男女
を問わず、信不信をも問わず、みな救うというので大変な苦労
を押してたくさんの人々がお参りに往ったと言います。

  それを明治初期の神仏分離令によって仏教と神道が法律によ
って分けられて以来、神仏混淆(こんこう=まぜあわせること)
の信仰がおおやけにできなくなり、あいまいな形のまま現在に至
っています。

  さてお盆です。お盆はご承知のように盂蘭(うら)盆会(ぼ
んえ)のことで、お釈迦さんの弟子の目蓮尊者(もくれんそんじ
ゃ)が修行によって得た神通力で亡くなった自分の母親があの世
でどのような暮らしをしているか調べてみたところ、生前の罪に
より毎日逆さ吊りにされて地獄の責め苦を味わらされているのが
解った。

  お盆の盂蘭(うら)盆の「うら」とは、逆さ吊り、という意
味だそうです。そこで師匠のお釈迦様にどうすれば母親が助かる
か聞いたところ、自分がこれまでお世話になった先輩の方々に供
応してこころから恩返しを繰り返せば助かる、と指導してもらっ
て、徹底してお釈迦さんの言われたとおりして、今度また神通力
によって地獄をのぞいたところ、もう母親は許されてその場にい
なかったそうです。目蓮尊者はうれしくなって小踊りし、踊り回
ったのが今日の盆踊りの起源だそうです。

  本家三日路ふれあい寄席のいまみや笑運会にいつも協力して
頂いている正信寺さんでは、8月13日、14日、15日の3日
間、お盆の法要がありました。

  天下茶屋を松虫通り沿いにズーと東にいったところ、阿倍野
区阪南町の住宅街に正信寺があります。通りからすこし中に入っ
たところですが、静かな佇まいは上品なお寺の雰囲気をただよわ
せます。

正信寺、堂守様が水を撒いてみなさんのお参りをお待ちになられ
ました。
     






  < お盆の法要をおこなう正信寺さん >









     < その入口 >









     < 本堂 >










     < その内部 >

  猛暑の中、20数人の檀家のみなさんがあつまり、院主
さんの読経がはじまって、しばらくしてから参拝者めいめい
の亡くなった名前が呼び出され、つぎつぎと焼香と拝礼をし
ていきます。「佛説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)」が
読まれ、このお経についての院主さんの法話がありました。
          









  < 御院主さんのお説法 >










  < 檀家のお参り >



  舎利弗(しゃりほ)という弟子に声をかけながら、お釈
迦さんが極楽のすばらしさ、阿弥陀佛の永遠の光り輝くお徳
と永遠にちかい威力を讃える説法をしていった
ようです。

  最後にお釈迦さんの生涯を伝えるDVDを参拝者に見て

もらってお盆の法要の1日目は終わりました。


      









  < DVDでお釈迦様の生涯を説明 >







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2013. 08. 13  
熊野街道・番外編 Ⅱ


           



8





  < 伝藤原家隆の墓 >

 

 大江神社と愛染堂のすぐ北側にいかにも時代物と思える立
派な墓石があり、見ると藤原家隆の墓、とありました。




 一名、家隆(かりゅう)塚といい、平安時代の有名な歌人
で、後鳥羽上皇が和歌の師匠として学んだそうです。
後に上皇が勅撰しまとめさせた「新古今和歌集」の重要な
選者の一人になりました。
               








  <  家隆(かりゅう)塚の説明 >







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